2009年2月23日月曜日

天地人と大河ドラマの劇伴音楽


今期大河ドラマの「天地人」のサウンドトラックを購入した。
大島ミチルの作曲。
聴き始めたらもう止まらない。素晴らしい。素晴らし過ぎる。
しかし「天地人」のサウンドトラックは、一見同じ音楽の使い回しのようにも見える。
同じ曲調の曲が繰り返し出てくる。
しかしこれはライトモティーフと考えれば納得できる。
そもそもメインテーマにほぼ全ての要素が込められている。冒頭の序奏ファンファーレに続いて主要なライトモティーフが3つ(正確には3つめは1つめの変奏)が出てくる。そしてメインテーマ以外の他の曲は数曲の完全オリジナルを除いてメインテーマ中のライトモティーフの変奏曲になっている。
このくどいくらいの使い回しが一度このメロディの虜になった者には堪らない。
メインテーマはむしろ他の曲の美味しいところを盛り込んだダイジェストとも言える。そういう意味では喜歌劇こうもり序曲に似ている。
メインテーマの2つめのライトモティーフは他の曲の中の「人~賛歌」(人とは天地人の人)のダイジェストである。「人~賛歌」は大河ドラマ第2回で喜平次(後の上杉景勝)が与六(後の直江兼続)を背負って歩くシーンの音楽だ。与六と喜平次の、兼続と景勝の、家臣と主の、北斗七星と北極星のライトモティーフである。
またメインテーマ1つめと3つめは揺るぎないもののライトモティーフで、憧れの上杉謙信や恐るべき魔王の織田信長の象徴である。これは後に主人公直江兼続が信頼と敵対を織り交ぜて最終的に直江状を叩きつける相手の徳川家康の伏線とも言える。したがってそれに挿まれた2番目の(兼続と景勝の)ライトモティーフは兜の愛の前立てに象徴される兼続の信念(領民愛、郷土愛)を表しているとも言える。(ちなみに愛の前立てとは兼続の兜に付いている「愛」という文字のことで、愛染明王、愛宕権現または敬天愛民の意味合いがあったとされる)
しかし中でも傑作の曲は、上記ライトモティーフ以外の完全オリジナル曲の中の「冒険心」と「美しき躍動」という2曲。「冒険心」が少年の、すなわち直江兼続の、「美しき躍動」が少女の、すなわち後の兼続夫人のお船のライトモティーフであることは明らかで、しかもこの両者はどこか似ている。兼続夫妻は似た者おしどり夫婦であること、少年少女は似ていること、の象徴だ。そしてこの両曲の持つレトロな雰囲気は、時代劇と言うよりはどこか両大戦間の大正ロマンの「はいからさん」の雰囲気である。懐かしさが充溢している。
「天地人」はこのようにライトモティーフ的な一連の楽曲群であるがライトモティーフだからといって決してワーグナー風というわけではない。管弦楽法はツェムリンスキー的、あるいはマーラー的である。
ライトモティーフ的でない、次々と新しい曲想が出てきてほぼ全て別の曲想で出来ている曲想の宝庫という意味では最近の大河ドラマでは「篤姫」の音楽(吉俣良作曲)が挙げられる。次々と別の曲想が出てきて反ライトモティーフ的な意味合いではこれまたマーラー的である。しかし底流には一貫して大きな1つのライトモティーフがあるようにも聴こえる。言うなれば「意志」のライトモティーフだろうか。
さらにその一つ前の大河ドラマ「風林火山」(千住明作曲)は曲想は別なのだがなんとなくライトモティーフがぐるぐる回っているような感じである。ライトモティーフと循環形式を組み合わせたものと言えるだろう。

シカゴ響 マーラー交響曲第6番 ハイティンク


○シカゴ交響楽団演奏会

開演:2009年2月1日(日)16:00

会場:サントリーホール

曲目:マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」

管弦楽:シカゴ交響楽団

指揮:ベルナルト・ハイティンク

たぶん、2度と聴けないような稀有な演奏だったと思います。 シカゴ交響楽団、ハイティンク、共に生演奏で聴くのは初めて! しかもハイティンクは、じゅ。がマーラー指揮者で最初に好きになった人です!バーンスタインよりも早く!しかも最初はバーンスタインが嫌いでハイティンクが好きだった!35年も前の話!35年越しの恋人!>ハイティンク ということでハイティンクの生姿を見ただけですでに涙が・・・ 第1楽章:高い演奏技術がもたらす揺るぎなさの完璧な音を当たり前のように出して、その上にハイティンクの想う音楽が滔々と流れていく。そしてすでにアルマを写したと言われる第2主題で早くもじゅ。の涙腺が決壊。。この揺るぎなさは終楽章まで崩れなかったようだ。約25分間の演奏。繰り返しあり。 第2楽章:スケルツォだ!マイミクさまから新規発売のCDの楽章順を聞いてスケルツォが来ると確信していた。 しかしこのスケルツォはどうだっ!ハイティンクが演奏すると、ハーディングの時はアンダンテとフィナーレの間に介在する夾雑物に過ぎなかったスケルツォが、慈愛に満ちた緩徐楽章のようではないかっ!これならフィナーレの前に置いても違和感はない。じゅ。は許さないけど。つまりアンダンテからフィナーレになだれ込む緊張の前のかそけき休止の観。 老大家の慈しむようなたゆたうようなスケルツォで、特に中間部と終結部はまさに暖かさに包まれるような、いじらしさまで感じる老人と孫たちの世界が繰り広げられる。たっぷり15分間の演奏。 第3楽章:一転、慈愛のなかにも冷たさを感じさせるような、淡々としたなかに掴みかねる悪しき予感を感じさせるような、余分な装飾を削ぎ落としたアンダンテだ。この普段着の平穏感がかえって不安を煽る。2次大戦中に青春期を過ごしたハイティンクの偽らざる経験の表出かもしれない。泣きの涙の楽章と言うより、言いようのない怖れが少しずつ澱のように蓄積されていく感じ。しかも音楽は非常にすっきりとしている。なんなんだ?簡潔に15分間の演奏。。 第4楽章:じゅ。のこれまで聴いたこの曲のフィナーレの演奏でも屈指の素晴らしさ。というか茫然自失・・・・ たしかにシカゴ交響楽団はアメリカの楽団だけれど、今日の音楽は完全にハイティンク流・・・・・ バーンスタインのような急激なストップもなければ、ショルティのような激するイキリもない。 しかしそれこそ悠久の欧州で幾度となく繰り返されてきた戦争と平和の絶え間ないサインカーヴがそのまま曲のうねりとなってハイティンクの棒から次から次へと紡ぎ出される・・・ 2度のハンマーのあと(立派なハンマーだった)、再現部から怒濤のシンバル3枚攻撃を撃破されて最後の擦りシンバルで沈黙するまでの魂の奔騰にマジ涙腺を瓦解させられ途方に暮れる・・・ 終結和音からスタンディングオベイションを経て本当にハイティンクが見えなくなるまで席を立てなかった。涙の約32分間の演奏。。。 思うに、シカゴ交響楽団とは本当にアメリカ流のプロの職業音楽家集団だ。 アメリカのプロは半端じゃない。 2次大戦中は日本人はそこを見誤った。贅沢三昧だからいい加減だろう。 ちがう。そうじゃない。アメリカの本当に高い技術を持つ人たちは本当に凄いプロ中のプロだ。日本の比じゃない。 シカゴ交響楽団の音楽家たちはプロ中のプロだ。 しかも彼らは自己主張してない。与えられた仕事を淡々と、的確に、正確にこなすだけだ。ミスを少なく。与えられた楽譜と指示に忠実に。仕事のプロだ。 そんな確実な仕事の上に、ハイティンクの長い経験と慈愛に満ちた精神とそしてなによりもマーラーへの深い愛情が注がれたとき、奇跡的な音楽がもたらされるものだ。 なにもそれは神が為し得たものではない。こつこつとした職人としての人間性と音楽への深い情念を持った人間性が邂逅しただけだ。これが人間の為せる業なのだ。 職人は別にうまく見せよう聴かせようなんて考えてない。淡々と仕事をこなしている。そこに優れた指揮者が息を吹き込みすばらしい結実を見せる。昨日拙発表会で失敗しちゃったじゅ。はそういう意味で職人みたいに仕事こなせないくせに自意識過剰だったのかも。