2015年10月18日日曜日

矢代秋雄の天才の証明

本日は下記の演奏会に行きました。

○WINDS CAFE 226ー日本のヴィオラ音楽傑作集ー
 開演:2015年10月18日(日)15時
 会場:スペースDo(ダクの下)
 曲目:
 諸井三郎/ヴィオラとピアノのためのソナタ(1935)
 鈴木行一/ヴィオラとピアノのための響唱の森(2009・遺作)
 水野修孝/無伴奏ヴィオラのための四章(委嘱初演)
 西村朗/ヴィオラ独奏のための「鳥の歌」による幻想曲(2005)
 眞鍋理一郎/ヴィオラとピアノのための長安早春賦(1988)
 矢代秋雄/ヴィオラとピアノのためのソナタ(1949)
 演奏:伊藤美香(ヴィオラ)中川俊郎(ピアノ)

 日本人作曲家のヴィオラの作品ばかりを集めた演奏会。
 非常に貴重な機会でした。

 諸井三郎/ヴィオラとピアノのためのソナタ
 日本初のヴィオラソナタ、とのこと。
 音源がなく事実上の再演?
 ヴィオラらしく超重厚な作品。

 鈴木行一/ヴィオラとピアノのための響唱の森
 両国高校出身で長く淡交フィルの指揮者だった人。(淡交フィルの追悼演奏会を聴いたような。。。)
 美しいけど弓の切れた毛をちぎりながら弾くような激しい曲。

 水野修孝/無伴奏ヴィオラのための四章
 今日の演奏会のために委嘱された無伴奏の作品。
 水野さんの作品は時々聴くけど最も良い作品ではないか。

 西村朗/ヴィオラ独奏のための「鳥の歌」による幻想曲
 今日聴いた中では最も前衛的な作品。
 とは言いながら基底は鳥の歌で、それを高音の弱音でベースにして重音を重ねて作られている。

 眞鍋理一郎/ヴィオラとピアノのための長安早春賦
 今年年初に亡くなられた眞鍋理一郎の作品。元はヴィオラと箏のための曲。
 眞鍋先生の純音楽の中では緻密にして重厚、しかも朗々としていてこれも傑作。

 矢代秋雄/ヴィオラとピアノのためのソナタ
 存在だけは知られていて、ヴァイオリンでの初演は(それも死後20年以上経って)成されたが音源もなくヴィオラソナタとしては本日が初演。
 これは日本のヴィオラ作品としてというよりも世界の弦楽作品中の傑作ではなかろうか?
 冒頭からディーリアスのヴィオラソナタを暗くしたような音楽が高音部のヴィオラで語られ出す。それを聴いているだけで胸が熱くなる。伴奏のピアノはフォーレ的でもありドビュッシー的でもありサティ的でもあるがそのどれとも一線を画す独創的なもの。
 ヴィオラは高度な技巧を孕みつつも聴いている人間の心を温かくしたり寂しくしたりする憂いに富んだ旋律で文字通り琴線にぐいぐいと触れる。
 20歳そこそこの若者に何がこのような曲を書かせたものであろうか?
 恋だろうか?
 戦争中の鬱蒼とした暗さと戦後のまぶしすぎて目も心も眩む明るさのあまりの落差だろうか?
 とにかく本日ここに弦楽の世界に新たな傑作レパートリーが誕生した現場に立ち会えたのは慶賀の至りであろう。

2015年10月11日日曜日

早坂文雄の天才の片鱗

日付が変わりましたが昨日はこの10月15日が没後60年の早坂文雄を記念する演奏会に行きました。

○東響現代日本の音楽の夕べシリーズ第18回
早坂文雄没後60年記念コンサート
開演:2015年10月10日(土)15:00 ...
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
曲目:早坂文雄作品
映画「羅生門」から真砂の証言の場面のボレロ
交響的童話「ムクの木の話し」
交響的組曲「ユーカラ」
管弦楽:東京交響楽団
指揮:大友直人


今日は真の天才の音楽に接した。

映画「羅生門」から真砂の証言の場面のボレロ
ラヴェルのボレロとほとんど同じ出だしから全く異なる音像が立ち上がる。日本風な感覚とはまた170度くらい異なるモダンなテイストながら全体としては和風な感覚なのはこの時代の邦人作曲家が目指してなし得なかったものであろう。
ラヴェルのと異なり静寂から始まり静寂に終止。

交響的童話「ムクの木の話し」
スクリーンへのアニメーション上映付き演奏。
戦時中「海の神兵」などのアニメーションを上梓しながらその技術のほとんどを戦後破却されたと思わせるほどに稚拙ながらその何もない中でよくぞここまでという作りのアニメーションに、21世紀の今日でもまだ先を行く先鋭的な音楽が付された作品である。
クレジットから日本国憲法の公布と時をほとんど同じくしている当作品では冬を象徴するオオカミのような氷の魔物が周囲を全て凍結してその手下が木を凍らせて鉤十字にしてしまうなど進駐軍(が観ること)を意識したような作りが見られるがそれらは聖母マリア風の春の女神によって一掃されるなど全体主義への民主主義の勝利のようでありながらその実は戦時中までを冬の時代戦後を春の訪れとして描いており、それを追いかけるように管弦楽が禿山の一夜風の冬から独創的な春の音楽を導く。
フルートが全員ピッコロに持ち替えて凄まじい鳥のさえずりを上げ、風音器・雷音器もないのに凄まじい暴風の様子が描かれていた。

交響的組曲「ユーカラ」
ほとんど交響曲に匹敵する作りであるが独創的。
赤にライトアップされたクラリネットの超絶独奏に始まり武満徹的二つの弦楽合奏の楽章に挟まれて両端に大規模な管弦楽を持つ。
全く類例を見ない作りでこれを聴くと弟子筋の武満徹や佐藤勝がまるで早坂の縮小再生産のようだ。

以上三曲とも弦と打楽器を中核に据えて高音で勝負していて、聴後感はまさに風(Breeze)が通り過ぎる如し。

2015年10月9日金曜日

リントゥのシベリウス、新日本フィル

10月7日リントゥのシベリウスの演奏会の記録です。

○シベリウス生誕150年記念交響曲全曲演奏会第1回
開演:2015年10月7日(水)午後7時
会場:すみだトリフォニーホール
曲目:シベリウス作品
交響曲第3番ハ長調作品52
交響曲第4番イ短調作品63
交響曲第2番ニ長調作品43
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮:ハンヌ・リントゥ

今シリーズは第1回のみ鑑賞。

交響曲第3番
落ち着いた演奏で、俗に言われる第2番より田園交響曲と言うに相応しい拡がりを持っていた。

交響曲第4番
じゅ。が生で聴いた4~5回の4番の中では最も素晴らしい演奏。
氷のような冴え冴えとした出だしから氷の城が築かれて鉄琴で氷の外壁にピキッとヒビが入って温まるまでの叙景のよう。アナ雪みたい?
よく、マーラーと面会した1907年以降、世界を包容するマーラーの交響曲へのアンチテーゼとして内的統一の権化のような評価をされる4番ですが、今日の演奏を聴いているとシベリウスなりに世界を包容してみようとして書かれたようにも思う ただし緊縮の方向に包摂。緊縮の方向だが第4楽章で溢れる世界を堰き止められなくなった。そういう演奏。

交響曲第2番
第1~3楽章までは非常に標準的にそくそく行った感じ
こちらも第4楽章で堰が決壊したように奔流が迸り出た
ハッとするようなルバートもあったりして、この名曲をかなり自由に料理したようだ。
個人的には、5月のサラステ/N響の超名演にはちょっと譲る感じではあるが、新日本フィルがリントゥの雄渾な棒によくついていったと思う。

新時代のN響の新しい復活

10月3日に行われたNHK交響楽団の演奏会の記録です。

○N響第1817回 定期公演 Aプログラム~パーヴォ・ヤルヴィ首席指揮者就任記念~
開演:2015年10月3日(土)18:00
会場:NHKホール
曲目:マーラー/交響曲第2番 ハ短調「復活」
ソプラノ:エリン・ウォール
アルト:リリ・パーシキヴィ
合唱:東京音楽大学
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ

記載の通りパーヴォ・ヤルヴィのN響首席指揮者就任記念演奏会である。
この日の朝なにげに7時に目覚めてパーヴォのインタビューを聞いた。

今回は多くの感想が出て来ない。
今までのマーラーの復活と全く別のマーラーが作曲した復活のようだ。
音節ごとに呼吸をしているような生きた音楽。
今までの常識と緩急が全て逆だが肝心なところではルバートない揺るがないテンポ。
かつて無く遠くから響く舞台裏の呼び声。
この心の昂ぶりと浄化、明日を生きていく糧のような音楽は、今日の生演奏を経験しないとたぶん語ることは出来ない。
亡くなった友人たちの想い出が走馬燈のように廻り追憶に涙する演奏ではなかった。今ここに確かに生きている人間を強く後押しするような、生気が渦巻くような演奏だったということだ。

震災や災害の被害を受けた人たちに捧げたい。ふとそんな気持ちになった。

2015年10月6日火曜日

衝撃的な映画の静謐な音楽

10月3日に行われたシネマコンサートの記録です。

○The Godfather Live 2015~ゴッドファーザー・シネマコンサート
開演:2015年10月3日(土) 13:00
会場:東京国際フォーラム ホールA
演目:『ゴッドファーザー』part1
音楽:ニーノ・ロータ
演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:ジャスティン・フリーア

好きな映画三本の指に入る映画。
音楽が大好きなニーノ・ロータ!
生(ロードショー含む)で2回、TVなどで3回以上は観てて次に何が来るかも大体みんなわかっている映画ですがそれでもあまりにも精巧な筋書きとド迫力の映像に前半は音楽が生なことを忘れて画面に完全に釘付け。
後半は大幅に音楽の生演奏の効果が高まり、シチリア島を舞台にした一連のシーンはもう歌劇と同じ(しかも内容が深くて示唆的)。
最後の受洗式のシーンはオルガンをどうするのだろうと思っていたのですが、何らかの手段で生音を得た模様で風圧を感じるほど。
それでも確かにシネコンの真価が本当に発揮されたのはエンドロールが終わったあとの静止画を背景とする演奏であったのは確かなところもあったが、後半はある意味映像と音楽が非分離にまで一体化していたのも事実であった。
これほどの凶暴凶悪な映画の音楽が斯くも静謐に溢れたものであることは、確かに前半では音楽の効果が映像体験に影響を及ぼしづらいところもあった(それでもオーボエやクラリネットの独奏はすばらしく響いた)のであるが、後半さらに凶暴凶悪の度が増すにつれてむしろ音楽が重要になってくるのは、そのあまりの衝撃を音楽の静謐で中和しようとするようにも見えるが、なによりその凶暴凶悪なシーンに脳が静謐な音楽を希求していることを監督や作曲者に見抜かれてしまっているようにも感じ取れた。

次回もしシネマコンサートがあるならワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカを観たいのであるが・・・(じゅ。が一番好きな映画である、最も凶暴凶悪の衝撃的映画。音楽は美の極致。)

2015年10月3日土曜日

プログレなショスタコーヴィチ、ビターなボロディン

今日は職場から歩いて5分(走って3分)くらいの場所で開かれた演奏会に行きました。

○KATOO QUARTET 4th Concert 「2人の作曲家、と3人の妻」
開演:2015.10.2(金)19:00
会場:スタジオ ヴィルトゥオージ
曲目:
ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲 第7番 嬰ヘ短調 作品108
ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲 第9番 変ホ長調 作品117
ボロディン/弦楽四重奏曲 第2番 ニ長調
出演:KATOO QUARTET(Vn1:加藤大貴 Vn2:広川優香 Va:神山和歌子 Vc:志賀千恵子)

ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲 第7番
弦楽のみながら交響曲並みの音圧で圧倒されまくり。

ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲 第9番
交響曲的圧倒に加え反交響曲的な個別楽器ごとの錯綜が結果的に見事に統御されたこの上もない演奏。アグレッシヴ&プログレッシヴ。
まさにショスタコーヴィチの交響曲は圧倒的な弦あっての管打なのだろう。と思った。
低弦の伊福部箏曲的撥音に混じってかすかにボロディン風の低内声も聞こえる。
考えられた選曲。

ボロディン/弦楽四重奏曲 第2番
プログレのショスタコのあと甘い蜜の味に浸ろうかと思ったら違った
アグレッシヴでビターな演奏。
力強くてほろ苦い。
内声が太い。高声部が過敏なほど美しい。
最初は高名な第1・3楽章より第2楽章が今日の白眉かと思った(事実、第2楽章はすばらしかった)が、違った 今日の白眉は第4楽章である!
長いこと第4楽章は苦手で付け足しみたいに思っていた。
しかし今日の演奏で認識が180度変わった 最初から「おずおずとしていない」劃然とした出だし、そのあとチェロが超スローテンポからパシフィック231の機関車の如く運動を開始し平衡に至るまで飽くなきカノンを展開しその間緩むことがない。
なるほどこれなら終楽章に相応しい。
というかこの曲の頂点ではないか?
少なくとも今日の白眉であることは間違いなかった。

アンコールは再びボロディンの第3楽章。本編と少し違った味わいだった。

若い奏者とはいえプロが本気を出すとこういう凄まじい音像が建つということがよくわかりました
自分も楽器を真剣に練習しようと思います

2015年9月28日月曜日

沈黙

なんか今BSで松村禎三のオペラ「沈黙」をやっているので、沈黙を観た感想を上げてみます。

○新国立劇場2014/2015シーズン オペラ「沈黙」/松村禎三
開演:2015年6月29日(月)14:00 
会場:新国立劇場オペラパレス
演目:松村禎三作曲/オペラ「沈黙」全2幕〈日本語上演/字幕付〉
主要キャスト:
【ロドリゴ】小餅谷哲男
【フェレイラ】黒田 博
【ヴァリニャーノ】成田博之
【キチジロー】星野 淳
【モキチ】吉田浩之
【オハル】高橋薫子
演出:宮田慶子
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:下野竜也

新国オペラハウス(大劇場)では初の公演という。

巨大な編成で巧妙な管弦楽法を駆使し、おそらく日本人作曲家の西洋音楽技法を駆使して到達したオペラの最高傑作ではないだろうか。
緊迫する動悸をチェンバロと打楽器で、海を弦楽器で、怒りを金管楽器で、神の存在の暗示を人間の合唱で行っている。
歌も日本語のため抑揚のついたアリアは少なくて半分シュプレッヒシュティンメのようであるが詠唱のような歌詞の伴奏の管弦楽法が精緻この上ない。

など色々注目すべき点はあるが、それらを全て忘我させるほどにひたすら泣ける作品であった。
特に数少ない抑揚のついたアリアの中でもオハルのアリアは演奏も相まって絶唱で、第4場の幸福と第8場の絶望の差異は胸を引きちぎられるばかりである。そこで歌われるオハルの恋人のモキチの優しい詠唱が涙の滝となる。
思うにここに描かれる邪と正、弱い心と強い心、罪と救済など全ての背反するが表裏一体をなすものが個人の内面の暗と明に転写されて心に響くからであろう。

2015年9月27日日曜日

作曲家としてのバーンスタイン

今日は下記の演奏会を聴きました。

○水響第52回定期演奏会
開演:2015年9月27日(日)13:30
会場:横浜みなとみらいホール 大ホール
曲目:
バーンスタイン/交響組曲「波止場」
バーンスタイン/交響曲第1番「エレミア」
ベートーヴェン/交響曲第7番
メゾソプラノ:小川明子
管弦楽:水星交響楽団
指揮:齊藤栄一

バーンスタインの没後早くも25年、バーンスタインの作品と最後に指揮した作品という組み合わせの演目。

バーンスタイン/交響組曲「波止場」
誘ってくれた知人から「波止場は冒頭が命」と伺っていたので一生懸命間に合うように行きました。
そしたら冒頭が命どころか脳内半球全てブチ飛ばされる打王(山本勲氏の別称)のローリングマレットティンパニのど迫力にしばらく肝を取られた状態(一種のトランス)になりました。ベト9の第3楽章で吹きっぱなしで疲れた顎が落ちたという感じ
また木管と弦楽器が美しい。特に中核を成すアルトサックスとホルンは絶妙である。

バーンスタイン/交響曲第1番「エレミア」
以前から一度は聴いてみたいと思っていてやっと念願が叶った曲。(LP時代にバーンスタインの芸術として3枚組で出ていた。そのうち一つはマーラーの5番と9番)
内容の深さに劣らぬ劃期的素晴らしさの演奏。
弦楽器はさらに美しく素晴らしく、長い廻しの旋律と短いフレーズのどちらも紗の川の流れのよう。
打王のローリングマラカスティンパニの技も光る。
ホルンと木管はここでも素晴らしい。
第3楽章でメゾソプラノがエレミア哀歌を謳い出すとこれが管弦楽とは異次元の素晴らしさ、
哀悼、連綿、痛切の極み 曲の元が良いのだろうが歌唱の詠唱風の響きが直線的に耳を圧する

今日の演奏でこの2曲を聴いてバーンスタインへの自分の考え方が180度転換した。
作曲家としてはあまり高評価していなかったのですが、この高い構成力と緻密極まりない設計の許外発すべきエネルギーを極限まで内燃させた演奏に接し、やはりウエスト・サイド・ストーリー「組曲」やキャンディード「序曲」だけで判断することの誤りを嫌というほど思い知った。
バーンスタインは超一流の作曲家です。
これで来春の都響による交響曲第3番「カディッシュ」への期待が嫌が応にも高まる。

ベートーヴェン/交響曲第7番
水響としてはめずらしい古典です。(金管はホルン倍管、トランペットアシ1あり)
きっと(弦とか)古典特にベト様をやりたがっているだろうなあと思いながら聴いたらやはりそんな感じで弦楽器の溌剌感とか木管楽器のしっとり感とか尋常でないレベルの高さ。
どこのウィーンフィル?位のレベルです
古典の鉄則の音の暴発(特に弦楽器を越えた管の音)を完全に抑制しながら身も心も踊るような躍動を示し、図らずもいろいろ不自由だっただろうベートーヴェンがその頃したかったこと(耳も聞こえて風や鳥の声を聴く、野山を走ってみる、とか)を想像させるようなワクワク感を感じさせる演奏。まさに一筆書きで奏しきったような爽快感。

2015年9月24日木曜日

甲斐説宗は甲斐宗運の子孫ではない(たぶん)

今日(水曜日・祝日)の夜に行ったコンサートです。

○<原田力男(1939-1995)歿後20周年追悼コンサート>
開演:2015年9月23日(水祝)19時
会場:公園通りクラシックス
曲目:
甲斐説宗/ピアノのための音楽 I
甲斐説宗/ヴァイオリンとピアノのための音楽 I
バルトーク/ヴァイオリン・ソナタ第1番 Sz.75
甲斐説宗/ピアノのための音楽 II
甲斐説宗/ヴァイオリンとピアノのための音楽 II
バルトーク/ヴァイオリン・ソナタ第2番 Sz.76
クセナキス/ディフサス
ヴァイオリン:甲斐史子
ピアノ:大井浩明

ピアノ調律師の原田力男氏の追悼コンサートです。
概ね初めて聴く曲。

甲斐説宗/ピアノのための音楽 I
甲斐説宗/ヴァイオリンとピアノのための音楽 I
早世した作曲家、甲斐説宗(1938-1978)の若い晩年の音楽。
名前が戦国大名阿蘇氏の軍師僧甲斐氏の名前に似てるけど関係ないらしい(たぶん)
※甲斐氏:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%B0%8F
「ピアノのための音楽 I」はピアノの中音域をプリペアドにして音の高低の中間を特殊な音にしつつ低弦や筐体を直接叩いたりして大井氏が大暴れする曲。
「ヴァイオリンとピアノのための音楽 I」はヴァイオリンをギロみたいにしてこれも特殊な音を醸しつつピアノと組み打ち合いを演じる。
旋律とか和声とかそういうのは一通り無しにして音を一つ一つ組み上げ直すような感じ 音の意味とか拡がりとか考えた

バルトーク/ヴァイオリン・ソナタ第1番
まあなんというか甲斐説宗のあとでは古典的に聞こえるというか、マーラーの復活の葬礼をピアノで聴いたビューローがこれのあとではトリスタンもハイドンの交響曲のようだと言った気持ちが良くわかった。
古典というと言い過ぎなので、ドビュッシーくらいに聞こえた

甲斐説宗/ピアノのための音楽 II
甲斐説宗/ヴァイオリンとピアノのための音楽 II
こちらはさらに晩年の作品。
演奏者の大井氏曰く先刻の2曲よりはだいぶ穏やかになったという。
音一つ一つの彫塑という点ではさらに磨きがかかったと言えなくもない。
ヴァイオリンも先刻の曲のように弓の弦が切れ切れになったりすることはない。
上記2曲の合間に作曲家の一柳慧先生が客席に着座さる。

バルトーク/ヴァイオリン・ソナタ第2番
こうなってくるとだいぶ甲斐とバルトークの差も埋まってくる。
バルトークは叙情的と言ってもいい。

クセナキス/ディフサス
これが旋律も和声も音もなく(一応あるが)音的衝動の蠢くままの音楽
ですが聴いててこちらも衝動を感じる なかなかの体感音楽である

アンコールとして、一柳慧のパガニーニ・パーソナルのマリンバ部分を本日の独奏者の甲斐さんがヴァイオリンに編曲した曲を演奏。なんだ、それで先生登場したのか・・・
でこれが、旋律も和声も音もすべて一緒くたに綯い交ぜしたような凄まじい音楽で、今日の本編が全てこれの前奏に聞こえたほど。
してやられた!

2015年9月23日水曜日

映画音楽作曲家の純音楽

今日(9/22)は下記の演奏会へ。

○オーケストラ《エクセルシス》【第6回演奏会】"アカデミー作曲賞受賞者の純音楽"
開演:2015年 9月22日(火・祝)14時
会場:杉並公会堂大ホール
曲目:
ロージャ・ミクローシュ/ヴィオラ協奏曲 Op. 37 ※日本初演
マルコム・アーノルド/イングランド舞曲集 第1集, 第2集 Op. 27, 33
ニーノ・ロータ/交響曲第3番 ハ長調
ヴィオラ独奏:加藤由貴夫
管弦楽:オーケストラ《エクセルシス》
指揮:大浦智弘

表題の通り、アカデミー作曲賞受賞者が書いた純音楽を演奏する企画。
自分はクラシック好きになる前は映画音楽が好きで、ニーノ・ロータが好きだったのでこれを聴かないわけにはいくまい。(45年くらい前?)

ロージャ・ミクローシュ/ヴィオラ協奏曲
ロージャ・ミクローシュは「ベン・ハー」の作曲者。
同郷のバルトークとは直接の接点はないようなのですが、曲の冒頭からバルトーク節炸裂!に等しい出だし。
要するに、これがハンガリアン魂というものか・・・
曲は日本初演とのことでもちろん初めて聴きますが、ヴィオラ独奏付きの交響曲に匹敵するような堂々としたもの。近代音楽の成果をふんだんに取り入れた劇的なものですが映画音楽とは全く違う造りになっている。具体的な表象は全くない。感情の動きのままに作られた感じ。
独奏の加藤由貴夫氏は元新日本フィルヴィオラ奏者とのことでまさに独奏付き交響曲のヴィオラ弾きにうってつけ。初めて聴いたのでソリスティックに感情と絡めてどう変化するかを予見させるまでには至らなかったが、楽曲のレファレンスとしては最適と言えようか。

マルコム・アーノルド/イングランド舞曲集 第1集, 第2集
マルコム・アーノルドは「戦場にかける橋」の作曲者。
これも初めて聴きますが、なかなかの佳品。
ノリとしてはバックス、アイアランドから安部幸明、小倉朗といった心象。
舞曲集だがちょっとしたシンフォニエッタという感じ
楽器の用法もお洒落というかコケティッシュ。
小物打楽器が巧妙に使われている。
演奏者のノリもかなり良い。

ニーノ・ロータ/交響曲第3番
ニーノ・ロータはご存じ「ゴッドファーザー」の作曲者。(映画音楽史的にはフェリーニの「道」の作曲者としてのほうが重要かもしれない。)
さすがに初めて聴く曲ではありませんが(生では初めてですが)、3曲の交響曲では一番地味な曲。(前回演奏会のマニャールも一番地味な第4番だった)
ですが演奏はシンプルかつ彫塑された響き、特に木管楽器が良い響き。
クラリネットは難しすぎそうで吹きたくない感じ・・・
特にロータの記念年というわけではないと思うが10/3にはゴッドファーザーの生演奏付き上映がされるというし、第1番第2番の交響曲とかオラトリオとかぜひ聴いてみたい。

アンコールはお約束というかロージャの「ベン・ハー」。

映画音楽作曲家は(特に日本では?)クラシック音楽界では低く見られる傾向にある(伊福部昭以来)。しかし、映画が20世紀のオペラといっても過言でない以上映画の劇伴音楽は歌劇作品と同様の評価を受けて然るべきである。
想像するにマーラーの「ゼッキンゲンの喇叭手」の活人画の付随音楽などはアニソンと一緒である。
逆に上述の理由で映画音楽作曲家の純音楽を純音楽専門の作曲家の純音楽より低く見るなどということはありえない。それはロッシーニやプッチーニの純音楽を低く見るようなものだ。

2015年9月20日日曜日

苦手なR.シュトラウスを聴く

今日は知人のお誘いで下記の演奏会へ。

○都民響第120回定期演奏会
開演:2015年9月20日(日) 13:30
会場:すみだトリフォニーホール
曲目:
シューマン/交響曲第4番ニ短調作品120
R.シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」作品40
管弦楽:都民交響楽団
指揮:末廣 誠
マイミクのすみれ様からのご招待です。
都民響はクラリネット・パートに都民・で・くらろーねというユニットを擁していて、超絶な技巧と美しい音色を誇っています。
今年はシューマン+R.シュトラウスという組み合わせが多い気がする。
シューマン/交響曲第4番
引き締まって無駄な贅肉がない緊迫した名演。
プログラムに指揮の末廣先生がマーラーとの関連を重視して解説しているにも拘わらず、演奏はマーラー臭は一切なく、シューマンのみずみずしさがすみずみまで行き渡った演奏。
そういう意味ではインバル/都響に少し近い。
クラリネットは水口さんが首席を吹いたと思うが相変わらず上手い。
他の管楽器もみな上手い。
R.シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」
じゅ。の苦手なR.シュトラウスの中でも最も苦手な楽曲で、中間部の戦闘シーン以外は大体寝ているような曲ではありますが、今日の演奏は最初から最後まで寝る間も与えぬ素晴らしい演奏。
各楽器の独奏的なところもアマチュア離れした素晴らしい技倆。
いつも聴いててキリスト教に対するトルコ軍のように感じる「英雄の敵」が高速演奏でもっと普遍的な闘争、たとえばヨーロッパ人同士の「シーザー対ポンペイウス」「オクタヴィアヌス対アントニウス」のように感じた。
「英雄の伴侶」もいつも鼻持ちならないおのろけに聞こえるが事前にプログラムの解説を読んだせい?でやな女パウリーネのいいとこを一生懸命書いたというと素晴らしい独奏演奏と相まってそんな気がしてくる まさに陰陽の平仄の限りを尽した
英雄の戦闘シーンはトランペットのファンファーレ3重奏はバンダを使わず正面の舞台上の麗しき女性3人に吹かせていて目も覚めた(というか冒頭から目は覚めていたのだが)
続く回顧のシーンも音像の輝きが色褪せることなく最後まで持続。
指揮者がなんとなくじゅ。と同じくR.シュトラウスに低評価で(プログラムの感じより)、それにより演奏にあまり妙な思い入れを入れずに突き放した客観的演奏だったのが却ってよかった。

2015年9月19日土曜日

今日のデリック・イノウエのブリテン

それで今日予定通り下記の演奏会へ。

○新日本フィル#49 新・クラシックへの扉 金曜/土曜の名曲コンサート
 開演:9月19日(土)17:00
 会場:すみだトリフォニーホール
 曲目:
 シベリウス/ヴァイオリン協奏曲ニ短調 op.47 *
 バーバー/弦楽のためのアダージョ op.11
 ブリテン/シンフォニア・ダ・レクイエム op.20
 ヴァイオリン:堀米 ゆず子 *
 管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
 指揮:デリック・イノウエ

先日の青ひげ公でその腕を確信したデリック・イノウエの棒によるブリテンです。

シベリウス/ヴァイオリン協奏曲
 今年が記念年なため聴く機会が増えているシベ・コンです。本日は改訂版(最終稿)による演奏。
 堀米さんの演奏を聴くのも久しぶり。
 出だしの管弦楽のヴァイオリン、クラリネット、そして堀米さんのソロがまさに岩に染み入る秋の虫の声という感じで最初から冷んやり感全開。力強いところも骨太さを見せつつも熟慮の結果、という感じで造形されていく。
 大人の味わい。
 アンコールはバッハの無伴奏ソナタ。

バーバー/弦楽のためのアダージョ
 今日は休憩時間にお酒を飲んだせいか心理的に不安定なせいか冒頭聴いていきなり涙ちょちょ切れ。細かい弦の綾が一つ一つ琴線に触れた感じでした。
 原曲の弦楽四重奏で聴いたらさらに想いがこみ上げるだろう。

ブリテン/シンフォニア・ダ・レクイエム
 日本政府の依嘱により、皇紀2600年奉祝曲として作曲された曲。
 いろいろな説があるが締め切りギリギリ(実は過ぎていた)のため写譜が間に合わなかったなどの理由もあって奉祝演奏会では演奏されなかった。委嘱料はこれまた日本側の勘違い?により一桁多く受領している。(by wiki)
 本日の演奏は撥音打楽器が打ち鳴らされる重い冒頭、テイストはショスタコを思わせるが真髄はマーラー的である第2楽章、引き続いて沈痛な鎮魂歌となるが、通して一貫する強い繋がりを感じさせる演奏。ちょうど今朝成立した安保法制の歴史的位置を回顧するような流れで聴くことが出来た。
 曲がそうなのかもしれないが今日の演奏、就中デリック・イノウエの棒は手堅く遺漏が一切無い緊縮・禁欲的でありながら、人それぞれの様々な想いを心へ呼び起こすような音楽で素晴らしい。
 イノウエの指揮は打点はそれほど高くなく地を這うようなところもあるが、動きが激しく精力的で全身を使って指揮するため奏者は彼の身体の動き全体を見て演奏するのだろう。

アンコールはRVWのグリーンスリーヴスによる幻想曲。生で聴くのは初めて。だけど指揮はしたことがある。高校生のとき。

この指揮ならばディーリアスの歌劇「村のロメオとジュリエット」の日本初演の棒をデリック・イノウエに任せてもよい。

演奏会聴取記録・2015年9月5日 デリック・イノウエの青ひげ公

今日デリック・イノウエでブリテンを聴いたのですが、それを聴く気を起こした青ひげ公の演奏会について。
(ほぼmixiの日記の再掲です)

この日は本来前日聴くはずだった新日フィルの定期でバルトークを聴きました。
○新日本フィルハーモニー交響楽団#546 定期演奏会
開演:2015年9月5日(土)14:00
会場:すみだトリフォニーホール
曲目:バルトーク作曲作品
ピアノ協奏曲第3番
歌劇『青ひげ公の城』op.11(演奏会形式)
ピアノ:小菅優
青ひげ:アルフレッド・ウォーカー
ユディット:ミカエラ・マーテンス
指揮:デリック・イノウエ

ピアノ協奏曲第3番
生で聴くのは初めてかも…(むかしラジオで聴いた)
バルトークの作品の中でも最も温和で美しく、しかし大衆に迎合するところは最も少ない部類の音楽であろう。
それを小菅優は軽やかなタッチで弾きながら楽想が楽しげにならず中低層にたゆたっているのはさすがに自家薬籠中以上の物にしているからか。
第2楽章の擬似コラールなどは絶品だ。
第3楽章の、明るくは決してないが熱さは内包する音楽は駆け上がるような演奏でまさに飛翔した。
最後に翔びきるところだけ書けなかったんだ、バルトーク。
奏者アンコールにミクロコスモスの蠅の物語とは只者とは思えない

歌劇「青ひげ公の城」
演奏会形式ですが簡単な舞台が設営されている。
白いテーブルと花瓶に入った花。
以前聴いたインバルは膨大な編成で日記を見たら「織田信長と濃姫と安土城にしか聴こえなかった」なんて書いてあったけど、この日の演奏は緊縮の極み。
心理劇としてのこの二人劇に焦点を当てている。
デリック・イノウエ氏の指揮は誠実以上にバルトークの暗く強い芯の音楽を余すところなく表現。(再来週のシンフォニア・ダ・レクイエムを聴きたくなった。)
歌唱はユディットのミカエラ・マーテンスは優れていたが実は青ひげのアルフレッド・ウォーカーが真摯に実像に近かった。
個人的にはせっかく暗く強いのに血があるからって赤い照明はどうかと思ったけど、(あとドアを開けるギーという擬音もどうかと思ったけど、)演奏が納得でした。

ということで、再来週にイノウエ氏のブリテンを聴きに行こうとしています

2015年9月17日木曜日

2014年のマーラー演奏視聴記録

結局2014年はマーラーの交響曲はすべて(10番全曲、大地の歌含む)聴きました。

1月4日 交響曲第10番クック全曲版(モーニングフィル)
1月13日 交響曲第2番「復活」(横浜シンフォニックアンサンブル)
1月24日 交響曲第2番「復活」(サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団)
1月25日 交響曲第5番(オーケストラ ハモン)
3月8日 交響曲第8番「千人の交響曲」(東京都交響楽団)
3月9日 交響曲第5番(厚木交響楽団)
3月15日 交響曲第9番(東京都交響楽団)
3月20日 交響曲第6番「悲劇的」(神奈川フィルハーモニー)
3月23日 交響曲第7番「夜の歌」(ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団)
4月19日 交響曲第9番(東京交響楽団)
5月5日 交響曲第2番「復活」(水星交響楽団)
5月6日 交響曲「大地の歌」(モーニングフィル)
5月29日 交響曲第4番(NHK交響楽団)
6月3日 交響曲第1番「巨人」(フィラデルフィア管弦楽団)
6月10日 交響曲第5番(八王子フィル)
6月15日 交響曲第10番クック全曲版(ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ)
6月27日 交響曲第2番「復活」(神奈川フィルハーモニー管弦楽団)
6月28日 交響曲第6番「悲劇的」(日本フィルハーモニー交響楽団)
7月20日 交響曲第7番「夜の歌」(高田馬場管弦楽団)
7月21日 交響曲第10番クック全曲版(東京都交響楽団)
8月5日 交響曲第5番(東京フィルハーモニー交響楽団)
8月16日 交響曲第9番(水星交響楽団)
9月15日 交響曲第3番(フライハイト交響楽団)
9月19日 交響曲第4番(新日本フィルハーモニー交響楽団)
9月28日 交響曲第5番(アーベント・フィルハーモニカー)
10月5日 交響曲第8番「千人の交響曲」(神奈川フィルハーモニー管弦楽団)
10月11日 交響曲第2番「復活」(オーケストラ・エレティール)
10月18日 交響曲第1番「巨人」(北区民オーケストラ)
10月19日 交響曲第2番「復活」(世田谷フィルハーモニー管弦楽団)
10月29日 交響曲第5番(イスラエル・フィルハーモニック)
11月2日 交響曲第4番(新日本フィルハーモニー交響楽団)
11月14日 交響曲第7番「夜の歌」(日本フィルハーモニー交響楽団)
11月15日 交響曲第7番「夜の歌」(日本フィルハーモニー交響楽団)上記と同じ曲目・演奏者
11月16日 交響曲第5番(府中市民交響楽団)
11月22日 交響曲第5番(みなとみらい21交響楽団)
11月30日 交響曲第9番(千葉市管弦楽団)
12月7日 交響曲第8番「千人の交響曲」(東京交響楽団)

2015年記録は年も押し迫ってきたらカウントする予定

2015年9月14日月曜日

これまでに聴いたマーラーの傷心者的ベスト演奏

マーラー3番の同率首位演奏が出たところで今まで演奏会で聴いたマーラーの演奏の自分的ベストを掲げますと、以下の通りです。 (カッコ内・次点)

1番 パーヴォ・ヤルヴィ/N響(山田一雄/新響)
2番 小林研一郎/世田谷響(山田和樹/日本フィル)
3番 山田一雄/東京マーラーユーゲントオーケストラ、ジョナサン・ノット/東響(ベルティーニ/都響(就任演奏会))
4番 ハインツ・ホリガー/新日本フィル(広上淳一/N響)
5番 シノーポリ/フィルハーモニア管(初回来日)(インバル/都響(1995))
6番 マイケル・ティルソン・トーマス/ロンドン交響楽団(現田茂夫/グリツィーナ・フィルハーモニカー)
7番 リッカルド・シャイー/ゲヴァントハウス管(渡邉暁雄/都響)
8番 ベルティーニ/都響(オンドレイ・レナルト/新星日本交響楽団)
大地の歌 ※
9番 金山隆夫/カラー・フィル(ベルティーニ/都響(最後のツィクルス))
10番 金山隆夫/モーニング(正月)フィル(金子建志/19世紀オーケストラ)

※大地の歌の筆頭は山田一雄が亡くなった年に東京マーラーユーゲントオーケストラで山田一雄追悼として演奏したもの(指揮:十束尚宏?)が最も良かったが、自分の記憶が曖昧なので記載しないでおきます どなたかご存知のかたがいたらご教示下さい なお同年に若杉弘/都響でも大地の歌が演奏されていますが、聴いたかどうかの記憶がやはり曖昧

マーラーだけあって?アマオケも相当数を占めています。

2015年9月13日日曜日

ノット/東響 会心、出色、棒陀の涙のマーラー交響曲第3番

今日は下記の演奏会へ!

○東響川崎定期演奏会 第52回
開演:2015年09月13日(日)14:00
会場:ミューザ川崎シンフォニーホール
曲目:マーラー/交響曲第3番 ニ短調
メゾ・ソプラノ:藤村実穂子
児童合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)
管弦楽:東京交響楽団
指揮:ジョナサン・ノット

最近東響との相性の良さから音楽監督の任期を延長したノット。
その相性の良さが全開するのにこれほど最適の曲はないだろう。

マーラー/交響曲第3番
第1楽章:雄大な構想の音楽をまさに雄大に演奏しきった感じ。概してホルン斉奏とトロンボーン独奏などの主要主題はゆっくりめ、弦と打楽器の夏の行進曲主題は速めの設定。正鵠を得たテンポだが時としてドキッとする動きも。また休符の完全な無音化も素晴らしい効果。
演奏は金管・木管楽器は普通に素晴らしく、弦と打楽器はそれに輪をかけて素晴らしかった。小太鼓のおねえさんが素晴らしい働き!
第2楽章:主題である旧題の野原の花々主題は非常に可憐な演奏で、急速部は魔的な感じで見事な対比。
第3楽章:これほど完璧なポストホルンの演奏を初めて聴いた!ポストホルンを包み込むような表の管弦楽の演奏が素晴らしい。独奏者を舞台裏に下がらせた協奏曲のようだ。
第4楽章:藤村実穂子の歌唱が圧巻。4階(私の席)まで良く響いた。楽節の歌詞の最後のsch!の音がシューッと長く響かないのが個人的にgood。丁寧な演奏で、後半部分は亡き子を偲ぶ歌のようなテイストだった。第5楽章のマーラー6番(第4楽章)の主題と併せて3番の予告的立ち位置がよく顕れていると思う。
第5楽章:今日ほど下層階で聴かなかったことを後悔したことはない!突如出現?した3階席に鐘と共に現れた少年少女合唱隊の透明極まりない声は先刻のポストホルンと双璧。
第6楽章:ここまででも充分に聴衆に尽くしてくれた管弦楽がゆっくりとゆっくりとたゆたうように主題を奏し始めただけですでに涙腺が切れる思いがした。巨神の歩みというよりはオスカー・ワイルドのわがままな大男の歩みのような、大男が冬の庭で小さな男の子を木にあげると木にはいっぺんに花が咲き乱れ鳥がやってきて歌を歌うような、そういう心が徐々に温まっていくような優しさに包まれた高揚感が効く者の心を溶かしてゆく。気がついたら棒陀の涙に目頭よりも鼻水が止まらない有様であった。

これまで聴いた同曲では長い間、山田一雄/東京マーラーユーゲントオーケストラが最上の演奏であったが遂にこれに並ぶものが現れた。それが今日の演奏である!

2015年9月12日土曜日

三善晃/交響詩「連祷富士」、他 山田和樹/日本フィル

本日は下記の演奏会へ。

○日本フィル杉並公会堂シリーズ2015 第3回
開演:2015年 9月 12日(土)午後3時
会場:杉並公会堂
曲目:
三善晃/交響詩「連祷富士」
ガーシュウィン/ラプソディ・イン・ブルー
グローフェ/組曲「グランド・キャニオン」
ピアノ:ベンヤミン・ヌス
指揮:山田和樹

このところ立て続けに新ヤマカズこと山田和樹の指揮を聴いている。
良い指揮者なので仕方がない。

三善晃/交響詩「連祷富士」
1988年にテレビ静岡開局20周年を記念して委嘱された作品でおそらく静岡市民文化会館で初演。
じゅ。はそのころ静岡県に勤務していたので初演を聴いています。
もう27年も経ったのでだいぶ忘れているかと思いましたが主要なところは覚えていました。
まさにあの時の感動醒めやらぬ演奏!
ご存じの通り和風なところとか富士山の描写的なところは皆無で、プレトークの新ヤマカズ曰く山の激しさ、厳しさを描く(場合によっては山岳の峻厳さの心象風景を描く)音楽ですが、今日の演奏は新ヤマカズらしく生命力に溢れてどちらかというと夏の富士山の印象。
和風と言えば主要部に入ったところで音響がちょっと和風になりますが(旋律は全くの無調寄り)、その後はどちらかというとバルトークの中国の不思議な役人風になって、三善にとって富士山=バルトーク(の峻厳さ)といった印象があったかもしれない。
まあ夏山といっても峻厳さは同じなのであって油断は出来ない。本日の演奏も凄まじい破壊力と度肝を抜く音響にも拘わらず、新ヤマカズの熱い血が地下水脈のように感じられた。
録画していたようなのでぜひ放送するかDVD化するかして欲しい。
そういえば、三善晃としてはめずらしく?風音器が使われていた。まあこれも風の描写ではなく厳しい山を前にしての心を吹きすさぶ風のような印象でしたが。

ガーシュウィン/ラプソディ・イン・ブルー
プレトークの新ヤマカズ曰く新ヤマカズの一押しのピアニスト。ドイツ人。父がジャズミュージシャンでジャズの血あり。
ですごいジャジーな演奏かと思いきや、たしかに通常版のラプソディ・イン・ブルーよりもピアノの句が多い気がしますがむしろ意外にもクラシックの小協奏曲を聴いているような雰囲気。
新しい楽句もジャジーというよりはクラシカルで、ただ小洒落た感じ。
ただ血がたぎるについては新ヤマカズ以上なのか、途中から立ち上がってピアノを弾いていた。
奏者アンコールはこの彼ヌス氏自作のSheという曲。これが非常にクラシカル(ただし印象派的)な佳曲。
新ヤマカズは先日の尾上右近といい25歳くらいの若者が好きみたい。。

グローフェ/組曲「グランド・キャニオン」
プレトークの新ヤマカズ曰く連祷富士とは正反対の曲。たしかに心象風景と描写音楽では絶対音楽と標題音楽くらいの差はある。
聴くたびに思うけど、この曲はR.シュトラウスの影響を非常に受けている。アルペンシンフォニーの焼き直しというだけでなく楽器選択、楽器用法、すべて。。
だから駄目とかきらいとか言うのじゃなく、描写音楽としては非常に優れていて、今日のような名演中の名演で聴くとグランド・キャニオンとはいかないまでもそれほど峻厳でない山道をのんびりてくてく歩いているような気持ちになってくる。
風音器も当然出てきて完全に描写に使われる。三善の時との使い分けがすごい(奏者も別)。
オケアンコールは同じグローフェのミシシッピ組曲のマルディ・グラ。
「アメリカ横断ウルトラクイズ」に使われてた音楽。
まあ、無い物ねだりですが、曲順完全逆(「グランド・キャニオン」→ラプソディ・イン・ブルー→「連祷富士」)で演奏して欲しかった。
オケアンコールに困っちゃうけどね。

演奏会聴取記録・2015年9月4日 山田和樹の別宮貞雄/交響曲第1番

○日本フィル第673回東京定期演奏会
開演:2015年 9月 4日(金)午後7時
会場:サントリーホール
曲目:
ミヨー/バレエ音楽《世界の創造》
ベートーヴェン/交響曲第1番
イベール/アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲
別宮貞雄/交響曲第1番(日本フィル・シリーズ第7作)
サクソフォン:上野耕平
指揮:山田和樹

ミヨー/バレエ音楽《世界の創造》
この日はミヨーの誕生日。
ミヨー--な曲。
途中からピアソラ風になったり、ガーシュイン風になったり。
オーボエがやたらと主旋律で活躍。サックスがそれに次ぐ。
クラリネットは騒がしい役回り。
本プログラムの前奏曲として誠に相応しい。(あとで気づいたのだが、ミヨーは別宮貞雄の先生なのだが後刻演奏される別宮の曲とは正反対の性格のやんちゃな曲で、それゆえこそ前奏曲に相応しいのである。)

ベートーヴェン/交響曲第1番
破天荒。度肝抜き。
まずもって倍管。4-4-4-4-4-2。
第1楽章再現部に入るところで曲が完全停止。そこから跳ぶ!
第2楽章冒頭第2ヴァイオリンのソロ!で始まりその後弦楽4重奏に!!(正確には弦楽3重奏まで行って第1ヴァイオリンから合奏に、だったと思う)まるでマーラーの5番の第3楽章の中間部だ!!
速すぎず遅すぎずスケルツォでもメヌエットでもない第3楽章はまさにぴったりのテンポ、
異様に遅い開始の第4楽章、微速漸進!
随所に瑞々しい輝きがあり、燦めきがあり、飛翔がある。そのさまはまさに水面を翔ぶ青魚のような生気に満ちている!
この演奏をベートーヴェンが聴いたらバーンスタインの自作5番を聴いたショスタコーヴィチのように舞台に駆け上がって山田和樹を抱きしめるだろう!!!
倍管は事前の聴く者の予想を裏切り音量増強でなく(クラリネットは若干増量に使われていたのは否めないが)飛翔の高低差を大きくつけるための跳躍台に用いられていたようだ。

イベール/アルト・サクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲
本プログラム最も気の利いたお洒落な曲。(ミヨーはじゅ。には多少洒脱すぎた)
小夜間飛行といった趣の曲であり、ベト1とベク1の間奏曲として誠に相応しい。
夜間飛行という意味では大澤壽人のピアノ協奏曲第3番と通暁するところがあり、イベールのほうが年代が先なので大澤もどこかで聴いたのかもしれない。

別宮貞雄/交響曲第1番
素晴らしい。曲が素晴らしい。演奏が素晴らしい。
実はベト1が倍管で4管になっていて別宮1が3管なので管編成はこちらのほうが小さいくらいだが、前述のようにベト1の倍管は厚ぼったさは皆無ですべて高き飛翔へと振り向けられていた。
ベク1は曲調が仄暗く沈潜する方向の中で光明を底辺で探し求めている趣である。
それをこの日の演奏を介すると若々しい感性で乗り越えんとしているように聞こえる。
ベト1も若々しいので、青春の持つ明るさと仄暗さがコインの表裏のようにベト1とベク1で描き分けられる。(ベートーヴェンもこの後耳が聞こえなくなり暗いほうにまっしぐらになるのを考えると悲しい気持ちになる。)
演奏は慎重を期しており、精緻綿密であるが、こちらも手探りの第1楽章、激しいが突き抜けることのない第2楽章、さらに深く沈潜する第3楽章を経て、実はここまで通して水底でうごめいていた青魚が第4楽章で一気に水面を突き抜けて飛翔する感じ!!先日の渡辺宙明の時(8/30)にも感じたが、なんなのだろうこの戦後昭和の突き抜け感は。芥川也寸志もそうだと思うけど当時のTVドラマ「事件記者」(こちらの音楽は小倉朗)的な多忙感と緊迫感に満ち溢れている。この仄暗さの中から突き抜ける飛翔感・跳躍感こそが本日の演奏の扇の要で、まさに今プログラムの4曲を貫く新ヤマカズの真骨頂なのだった。

演奏会聴取記録・2015年8月29日 オーケストラハモン/マーラー7番

○オーケストラハモン 第33回定期演奏会
開演:2015年8月29日(土)14時
会場:ミューザ川崎:シンフォニーホール
曲目:
メンデルスゾーン/劇音楽「真夏の夜の夢」序曲
マーラー/交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」
管弦楽:オーケストラハモン
指揮:冨平恭平

ハモンはクラリネットがオーボエの後ろの楽団なのですが、ついうっかり左側の席を買ってしまってクラリネットがマイクに少し隠れてしまいました。また4階の最前列は手すりが少しじゃまでしたが、それ以外は言うことないよい席。

「真夏の夜の夢」と「夜の歌」とは残暑が厳しい時節を想定しての選曲の気もしたが最近は涼しくなって、むしろ曲想にぴったりの季節になりました。

メンデルスゾーン/劇音楽「真夏の夜の夢」序曲
クラリネットがオーボエの後ろと併せて弦は対向配置、オフィクレイドのかわりにチューバがクラリネットの隣で管楽器が固まっている配置。
明るい調子の音楽で仄暗い世界を描いた卓抜な演奏。まさにパックが飛翔する魑魅魍魎の世界の現出。

マーラー/交響曲第7番 ホ短調「夜の歌」
素晴らしいの一言に尽きる。
第1楽章から余計なルバートを一切排し、ひたすら微速漸進する様はじゅ。の尊敬するクレンペラーの演奏を速くしたような感じ 再現部~コーダの小太鼓のあたりのかっこよさはすでに大野/都響をしのぐほど。通常つまらない演奏に堕しがちな第2楽章も気の利いた演奏で明るい夜といった印象。フルートの意図的な速い躓くようなパッセージが印象的。それは第3楽章でもさらに認められて弱音の打楽器と合わせて明るい魑魅魍魎の世界 パックが陽気に跳ねている 第4楽章はじゅ。の趣向と違い速い演奏(12分くらい)だがこれまでの流れからは充分肯んじられる。急緩急緩急でなく微加速でだんだん流れが急速になる印象 そんなで第5楽章は常と異なり暗→明への急転換でなく明→明で突入して初めからこうなることがわかっていたかのような展開 ヘンデル的世界の現出というか むしろ評論家受けのよい第1楽章の主題の回帰のところが暖かさに水を差す北風のようで、最後に再びヘンデル的太陽が輝いてこの乱入した北風を完全に駆逐して曲が終わる感じです
演奏は、いつもオーボエを偏愛するマーラーですが今日はクラリネットが美しく素晴らしく、第4楽章のマンドリンと絡むところとか最後の9番でも有名なファ♯ソラソとかとろけるばかり。
めずらしく7番聴いてて最後にジーンとなる演奏でした。

冨平さんの指揮は表で管弦楽振る以外のを含めたら今月3回目(秋山/東響復活合唱指揮、大野/都響ツィンマーマンレクイエム合唱指揮指導、本日)ですが、どれも素晴らしい仕事ばかり。大野/都響のマーラー7番凌駕したと感じたのもあながちご愛敬とは言えないような鋭い振り、前プロのパック=妖精をむしろ仄暗く、後プロの妖精をむしろ仄明るく演じ分けたのも眼光紙背を徹する演奏でした。

演奏会聴取記録・2015年7月26日 マーラー嘆きの歌初稿版 名古屋にて

○愛知祝祭管弦楽団 「嘆きの歌」2015 特別演奏会
開演:2015年7月26日(日)午後4時
会場:愛知県芸術劇場コンサートホール
曲目:グスタフ・マーラー作曲
交響詩「葬礼」(Totenfeier)
花の章(Blumine)
カンタータ「嘆きの歌」(1880年初稿版)(Das klagende Lied)
第一部 森のメールヒェン(Waltmärchen)
第二部 楽師(Der Spielmann)
第三部 婚礼の出来事(Hochzeitsstück)
ソプラノ:基村昌代
アルト:三輪陽子
テノール:神田豊壽
バリトン:能勢健司
ボーイソプラノ:前川依子
ボーイアルト:船越亜弥
合唱:グリーン・エコー
指揮:三澤洋史

二度と再び観るまたは聴くことが出来るとは限らない演目です。

交響詩「葬礼」
は、若杉弘/都響、ジャパン・グスタフ・マーラー・オケ、千葉フィルで聴いているのでもう4度目ですが、今回のはそのどれとも違う、細かいディテールまで明確にされた演奏で、復活の第1楽章の整然としたソナタ形式とは一線を画す情熱を抑えきれない若者の不安定さをそのまま直球でぶつけてこられた感じ 当然引き締まってもいないが膨満でもなく、情熱が饒舌になったまま隠せず並んでいる 確かにこれを聴いたら大指揮者のビューロゥも全否定するだろう、それを聴いたマーラーが出した回答が復活の第1楽章なら「これを聴けばトリスタンなどはハイドンの交響曲のようだ」は誉め言葉となる。

花の章
は、これもまた今まで聴いた花の章(交響曲に含まれるものも単独のものも含めて)のどれとも違う、元曲の活人画「ゼッキンゲンの喇叭手」の劇付随音楽に最も忠実であろう演奏。活人画付随音楽は今で言う劇伴の走りと考えられるので、言うなればアニソンっぽい演奏である。それも異様にシューベルト的な味わい。シューベルト風劇伴音楽。という感じ
喇叭手の元であるトランペットの独奏はもちろん素晴らしいが、それを追っかけるクラリネットの演奏も素晴らしい。

カンタータ「嘆きの歌」(1880年初稿版)
初稿版の持つ深い破壊力と演奏者の共感の為せる技で、およそカンタータと名の付く物(世俗的なカンタータ)では最も心揺り動かされる演奏となった。
先に演奏のことに触れるとまずもって管楽器が抜群の出来映え。それを支える弦楽器も素晴らしく、何より18人もいて完全に宮廷楽団を再現したかと思われる舞台正面裏にいたバンダ部隊の演奏が舞台上と競奏して素晴らしい出来栄え。
そして何より作品の内容を全員が理解したかのような音楽によって、なんとじゅ。は初めは弟に、そして最後は自画像として兄を自虐的に描いた少年マーラーに完全な感情移入というか憑依に近い状態となってしまった。
言うまでもなくこの曲は13歳で亡くなったマーラーの年が近い直近の弟エルンストに対しての兄としての懺悔の感情から書かれたとする説が濃厚であるが、グスタフは「この弟を愛しており、彼と友にその病気の全ての段階を耐えしのんだし、最後まで、幾月もの長い間、その枕元を去らず、彼に物語をしてやって時を過ごした・・・・・・。」そんなグスタフが弟の死に責任を感じて嘆きの歌の兄のように自虐的に自分を見たのなら哀しすぎる。マーラーは死を怖れていたとよく言われるが、同時に早くエルンストのところへ行きたいと思っていたのではないだろうか?あるいは死んでエルンストのところへ行くのなら死は怖くなかったのではないだろうか?そんなことを思いながら聴いていたら、6本のハープからマーラーの10番の第1楽章の終わりのフレーズが聞こえてくるではないか。10番で兄はエルンストのところへ行こうとしたのかもしれない。エルンストは目が不自由で、「彼はいつも夢の中に生きていた。」嘆きの歌の第一部では殺された弟は「夢見るようにほほ笑んでいた。」かわいそうなマーラー。そんなに自分を責めなくてもいい。とか考えていたらだんだん涙ぐんでしまいました。

演奏会聴取記録・2015年6月23日 ピアノによるマーラー交響曲第6番、7番

○ピアノによるマーラー交響曲集第三回公演
開演:2015年6月23日18:30
会場:渋谷・公園通りクラシックス
曲目:
マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」(ツェムリンスキーによる四手連弾版)
マーラー/交響曲第7番ホ短調「夜の歌」(カゼッラによる四手連弾版)
ピアノ演奏:大井浩明(1st)、法貴彩子(2nd)

会場に一柳慧氏出現!

マーラー/交響曲第6番イ短調「悲劇的」(ツェムリンスキーによる四手連弾版)
音源は持っているのですが生だと全然違う。
しかも音源と異なり第3楽章がアンダンテ。
こちらの楽章順がツェムリンスキーのスコア原譜通りだという…
演奏は強烈なタッチの凄演。
縦の線が一致するような編曲。なので旋律線は見えにくく、第1楽章の有名なアルマのテーマ(第2主題)もなんとなく通り過ぎてしまった。旋律線がはっきりするのはアンダンテ楽章(今回の第3楽章)。で今回の演奏の白眉もずばり第3楽章…
編曲とは言え原譜に忠実で新たな音の付加はないと思われるが、どことなくツェムリンスキー節が聞こえる。原譜から音を選ぶのは編曲者の裁量なので、ツェムリンスキー好みの音が選ばれたのかもしれない。縦の線の連携が強調されたのと相まって、ツェムリンスキー風表現主義的6番、という感じ
今回は素人向け?に、ハンマーの位置で跳ぶ(足を踏み鳴らす)という演出があった(3回)が、じゅ。も素人なので2回目から一緒に足を踏み鳴らしました。
ピアノは減衰音で漸増しないので音が生じたらすぐ次の音に移行するせいか、全体に管弦楽より速い演奏(21、10、12、26分)。

マーラー/交響曲第7番ホ短調「夜の歌」(カゼッラによる四手連弾版)
こちらは楽譜は持っているけど音になったのを聴くのは初めて。
第6番と異なりこちらは横の線(旋律線)が繋がるような編曲。よって演奏も第6番より流麗な感じがする。
こちらは徹頭徹尾マーラーしか聞こえてこない音楽。しかし決して音が薄くなることはなく、線がいくつもの紗になって流れていくような演奏。
またカゼッラはパリ在住が長くフランス印象派との関係が深いためか、印象派的な処理を感じた。特に、パリで同窓であるラヴェルのサークルにいたためかラヴェル風なところもあり、第3楽章などはその典型だ。
それでいて、のちに彼が新古典主義に傾倒したことの萌芽のように第5楽章はネオ・バロック感が満載であり、管弦楽の華やかな楽器をそぎ落とした今回のピアノ演奏は典雅ですらあり第5楽章だけはチェンバロで演奏しても差し支えないのではないかとさえ思った。
第6番よりさらに速い演奏(19、12、9、9、17分)。

この両者を比較すると、第6番四手版は管弦楽初演前にツェムリンスキーがマーラーと連弾した等の記事を読むにつけ、ツェムリンスキーがいかにマーラーに心酔していたかがわかる。しかも編作は換骨奪胎の趣きあり、マーラーとツェムリンスキーはほぼ対等の関係にあった気がする。今回の演奏を観ると1stと2ndは激しく腕を交差させており、まさか同性への愛とまではいかないだろうが相互の対等な深い信頼関係がうかがえる編作となっている。これに対し、第7番は原曲に非常に忠実に作られており、カゼッラがこの曲自体に心酔していなければここまでの忠作はありえない。一方マーラーその人に対しては、今回のプログラムには詳細は書かれていないがヴィニャルのマーラー評伝(海老沢敏訳)によればマーラー復活パリ公演の際はパリのカゼッラ邸で復活が連弾で試演され、第8番のミュンヘン初演にも立ち会ったカゼッラであるから、マーラーその人への心酔も当然のことあったろう。今回の演奏を観ると1stと2ndの交錯はほとんど無く、第2・4楽章の一部と第5楽章のメリー・ウィドウのところで申し訳なさそうに少し交差するだけである。旋律線を乱さないための配慮とも取れるがおそらく復活をマーラーと一緒に連弾試演したであろうカゼッラが1stをマーラーに見立てて決してマーラーの領域に踏み込まない姿勢を見せているとも取れる。つまりカゼッラにとってマーラーへの心酔は尊敬であり遙かに憧憬のようなものであろう。そしてその編作にはプロの作曲家の技以上に憧憬に似た心酔の痕が聴き取れるのである。

この日はアンコールになんとマーラー/交響曲第8番「千人の交響曲」第1部!
こんな僥倖があろうか…
第8番はその巨大編成ゆえなんとなく聴いているとホモフォニック的に聴き流してしまうが本日のようにピアノまで削ぎ落とすと異様にポリフォニックな音楽であることが明確に聴き取れる。
やはりバッハのカンタータのようであり、第7番のネオ・バロックの趣と立て続けに聴くことは興味深い…
どちらのかたの編曲家はわからなかったが児童合唱の節まで細かくピアノに織り込まれた優れもの。合唱の節回しと前述のポリフォニック、カンタータ風の晴れがましさは、まさに「光もて五感を高め!」に相応しい。

演奏会聴取記録・2014年7月21日 マーラー10番インバル/都響

○都響スペシャル
開演:2014年7月21日(月)14:00
会場:サントリーホールホール
曲目:
マーラー/交響曲第10番嬰へ長調(クック補完版)
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:エリアフ・インバル 

プログラム挿入のパンフレットによれば、都響はマーラーの10番クック版を4回(バルシャイ版を入れると5回)演奏しており、じゅ。はおそらくすべて聴いております。
しかし、今日の演奏は、その中で最高でありかつ空前絶後の演奏となりました。

マーラー/交響曲第10番嬰へ長調(クック補完版)
第1楽章
冒頭のヴィオラのモノローグから尋常ならざる重苦しい美しさの一糸乱れぬ紗の布地のような連綿とした演奏で早くもじゅ。の涙腺を著しく刺激する。しかしそれは一様のものではなく、9小節目と11小節目の3拍や12・13小節目の4拍目にいままでの他の演奏にない明白なアクセントを置いて心的襞の有りようを示す、心臓の鼓動のようでもある。やがてアダージョから湧き起こる真空状態からの叫びのような弦楽器群は単に綺麗に揃っているだけでなく慟哭と清明の間をひたひたと流れ進み、68小節で張り詰めた緊張の小頂点を築いたあと75小節の従来はヒステリックな頂点とされるが今日の演奏では緊張のあまり脳のすべてを吸い取られてしまうような大頂点を築き、やがて鬱勃とファゴットのトリルに吸収される。そして再びヴィオラのモノローグ…ここまでの111小節で、すでに緊張の極致を聴衆にもたらすものの、決して暗くなく、そこはかとない仄明るさを清透感をもって奏でていく。このアンビヴァレントが凄まじい。
112小節からはじゅ。的にはいつおマーラーらしからぬ狂騒を感じ取っていたが、この演奏では心の底からしっくりときてマーラー一流の心的波動感を愛苦しいレベルで奏していく。やがて194小節のクラスターからトランペットのA音を残すとき、徐々にではなく段階的にディミュニエンドして全体も終焉に至るが、ほぼ1楽章通して美しいの極致で珠玉の宝石のような音色群だ。
第2楽章
永いこと、じゅ。的にはマーラーの原作としてもマーラー的の理解に苦しむプロコフィエフ的な楽章であったが、この演奏で初めてしっくりときた感じがする。随所に打楽器の追加などクック最終版に第2版の要素を加味してはいるが、トーンは抑制的で第1楽章の仄暗さと仄明るさをそのまま引き継いでいるうえ、奇矯さを抑えて後ろ髪を引くような微妙な節付けの演奏だ。それは第3・4・5楽章にも引き継がれる。
スケルツォ=フィナーレと草稿に記されていたのに基づいてか、ここで指揮者のインバルはいったん舞台裏に下がる。
第3楽章
昨日の演奏を聴いた金子建志先生も記されているが第3・4・5楽章は第3楽章の短い主題(ソードーソ)から派生している。それはあたかも小さな細胞からの巨大な変奏で後篇が成り立っているようであり、この演奏が3・4・5楽章すべてアタッカで繋がっているところからもそれと知られる。
この重要な第3楽章が、単なる顔見せ的なのとは違う、極めて意味深長な演奏でもって終始奏され、短いながら人生の清濁をすべて飲み尽くすような深い情感に満ちた演奏だ。
第4楽章
じゅ。の最も好きな楽章である。
冒頭で、クック最終版にないシロフォンが奏される。金子先生によれば死の象徴としての骨、骸骨を象徴するものとしているが、じゅ。的にはその説は採らず、シロフォンの音は乾燥であり、乾きであって、つまりは渇望であり、生への渇望だ。マーラーはフロイトの診察でいったん精神的安寧を取り戻し、これまで以上に生きたいと思っていた時期であって、次第に迫り来る死の恐怖に対し、是が非でも生きたい!と思ったのである。まさにそのようにシロフォンが乾いた音で鳴らされ、応答はいったんはグロッケンシュピールの滴となって癒されるが、次から次へと沸き立つ渇望に対してついに軍楽用大太鼓(本日は見てくれは普通だが極めて鮮明な音のする大太鼓)によってその希望を断たれる様が凄まじくまた哀しみを誘う。
第5楽章
その鈍いが非常に良く音の通る大太鼓の一撃に伴う地底地獄から湧き上がるような凄まじいチューバの吹奏とあまりに対照的な可憐なフルートの音色、そして煉獄の釜を開けた(ソードーソ)の凶暴な雄叫びが第1楽章の旋律の復帰を挿んで神に看取られるが如く急速に透明化して長い弦楽器の慟哭というよりは詠嘆の持続に入り、ついに385小節で生きたい気持ちが横溢したまま後ろ髪を引かれるようなフルートークラリネットーフルートーホルンでその生を強引に閉ざされその直後394小節で弦楽器が弓を交互に返していく様を見て生を閉じた魂が蝶に姿を変えて舞い上がる様を見るようで涙を禁じ得なかった。

聴後感は、しかし悲しいものではなく、なんかやることをやりきったような不思議な達成感と透明感で、心に充分に満ちるものがあった。

思うところあってブログを再開しようかと・・・

思っています