2015年9月12日土曜日

演奏会聴取記録・2015年7月26日 マーラー嘆きの歌初稿版 名古屋にて

○愛知祝祭管弦楽団 「嘆きの歌」2015 特別演奏会
開演:2015年7月26日(日)午後4時
会場:愛知県芸術劇場コンサートホール
曲目:グスタフ・マーラー作曲
交響詩「葬礼」(Totenfeier)
花の章(Blumine)
カンタータ「嘆きの歌」(1880年初稿版)(Das klagende Lied)
第一部 森のメールヒェン(Waltmärchen)
第二部 楽師(Der Spielmann)
第三部 婚礼の出来事(Hochzeitsstück)
ソプラノ:基村昌代
アルト:三輪陽子
テノール:神田豊壽
バリトン:能勢健司
ボーイソプラノ:前川依子
ボーイアルト:船越亜弥
合唱:グリーン・エコー
指揮:三澤洋史

二度と再び観るまたは聴くことが出来るとは限らない演目です。

交響詩「葬礼」
は、若杉弘/都響、ジャパン・グスタフ・マーラー・オケ、千葉フィルで聴いているのでもう4度目ですが、今回のはそのどれとも違う、細かいディテールまで明確にされた演奏で、復活の第1楽章の整然としたソナタ形式とは一線を画す情熱を抑えきれない若者の不安定さをそのまま直球でぶつけてこられた感じ 当然引き締まってもいないが膨満でもなく、情熱が饒舌になったまま隠せず並んでいる 確かにこれを聴いたら大指揮者のビューロゥも全否定するだろう、それを聴いたマーラーが出した回答が復活の第1楽章なら「これを聴けばトリスタンなどはハイドンの交響曲のようだ」は誉め言葉となる。

花の章
は、これもまた今まで聴いた花の章(交響曲に含まれるものも単独のものも含めて)のどれとも違う、元曲の活人画「ゼッキンゲンの喇叭手」の劇付随音楽に最も忠実であろう演奏。活人画付随音楽は今で言う劇伴の走りと考えられるので、言うなればアニソンっぽい演奏である。それも異様にシューベルト的な味わい。シューベルト風劇伴音楽。という感じ
喇叭手の元であるトランペットの独奏はもちろん素晴らしいが、それを追っかけるクラリネットの演奏も素晴らしい。

カンタータ「嘆きの歌」(1880年初稿版)
初稿版の持つ深い破壊力と演奏者の共感の為せる技で、およそカンタータと名の付く物(世俗的なカンタータ)では最も心揺り動かされる演奏となった。
先に演奏のことに触れるとまずもって管楽器が抜群の出来映え。それを支える弦楽器も素晴らしく、何より18人もいて完全に宮廷楽団を再現したかと思われる舞台正面裏にいたバンダ部隊の演奏が舞台上と競奏して素晴らしい出来栄え。
そして何より作品の内容を全員が理解したかのような音楽によって、なんとじゅ。は初めは弟に、そして最後は自画像として兄を自虐的に描いた少年マーラーに完全な感情移入というか憑依に近い状態となってしまった。
言うまでもなくこの曲は13歳で亡くなったマーラーの年が近い直近の弟エルンストに対しての兄としての懺悔の感情から書かれたとする説が濃厚であるが、グスタフは「この弟を愛しており、彼と友にその病気の全ての段階を耐えしのんだし、最後まで、幾月もの長い間、その枕元を去らず、彼に物語をしてやって時を過ごした・・・・・・。」そんなグスタフが弟の死に責任を感じて嘆きの歌の兄のように自虐的に自分を見たのなら哀しすぎる。マーラーは死を怖れていたとよく言われるが、同時に早くエルンストのところへ行きたいと思っていたのではないだろうか?あるいは死んでエルンストのところへ行くのなら死は怖くなかったのではないだろうか?そんなことを思いながら聴いていたら、6本のハープからマーラーの10番の第1楽章の終わりのフレーズが聞こえてくるではないか。10番で兄はエルンストのところへ行こうとしたのかもしれない。エルンストは目が不自由で、「彼はいつも夢の中に生きていた。」嘆きの歌の第一部では殺された弟は「夢見るようにほほ笑んでいた。」かわいそうなマーラー。そんなに自分を責めなくてもいい。とか考えていたらだんだん涙ぐんでしまいました。

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