2016年11月26日土曜日

パリのマーラー

本日(11/25)は下記のコンサートに行きました。

〇パリ管弦楽団日本公演最終日
開演:2016年11月25日 (金)19:00
会場:東京芸術劇場コンサートホール
曲目:
メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64
マーラー/交響曲第5番 嬰ハ短調
ヴァイオリン:ジョシュア・ベル
管弦楽:パリ管弦楽団
指揮:ダニエル・ハーディング

今年からパリ管の音楽監督に就任したハーディング直卒です。

メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲
ジョシュア・ベル初めて聴くのでちょっと楽しみ。
そのジョシュア、冒頭からそのかなり派手な動きと裏腹に腰の据わった艶のある旋律線とこぼれんばかりの美しい音色でメンコンを染め上げる。
せっかくだから静止して弾けば似合うのにと思ったら第2楽章は直立不動だった。
第3楽章はそのあでやかさと動きもようやくマッチした感じ。
動きに釣られず眼を閉じて聴けば凄い名演。(動きはバルトーク的かも)
それにしてももし万が一じゅ。のなご管でメンコンやることになったらじゅ。はクラリネット降り番ケテイ
こんなに上手に吹けないよ。速いパッセージもクリクリと鮮やか。

マーラー/交響曲第5番
ハーディングのマーラーの5番は東北大震災の翌日のチケットを持っていて演奏中止となり(当日は挙行・有名なドキュメンタリー番組となる)代替公演は仕事の日で聴けず結局払い戻しをしたので、是が非でも聴きたいと思っていた演目。
オケが震災翌日の新日フィルでなく、フランスのしかもパリ管弦楽団が独墺系の曲を演ずるというのはどうなることかと思ったが、最近いろいろと痛めつけられているフランスのパリがこの曲の普遍的な価値を捉えてあたかも「マーラー!なんとかしてくれ!!」と叫んでいるが如き第1部の第1・2楽章であった。適度な間を有しながら曲が進むにつれ間の停滞が後ろ髪を引くようになる。ほとんど類を見ない完璧な管打楽器に連綿とした弦楽器が嘆きの雨を降らせる。第3楽章でも初めはこの嘆きの感覚を引きずっているように見えたがだんだんとほぐされていく。これが初めからそのように設計されていたのなら見事だ。あたかも某ドラマでガッキーにより閉ざされていた心がだんだんと温かく溶けていくヒラマサさんのようだ。それを連綿としてシャンソンを歌うような弦楽器が支えていく。第4楽章は9分前後の短いものだったが連綿の極致で長く感じた。中間部が簡潔で連綿としつつも後ろを振り返ることを抑えて進む。圧巻の第5楽章は全体がイン・テンポで微速前進、それこそ後ろ髪を引かれてももう後ろは振り向かない。目を見張る金管の完璧さ。フーガの開始から終結まで息もつかせぬ弦楽器の追い込みの激しさ!パリは燃えているか?の言葉通りの大団円。
特筆すべきは弦楽器で、連綿とした歌を謳いながら死に物狂い。
また管楽器の美しさは比類がなく、それこそ心の内奥の表現の域に達する。
というか、この寒空の下、心の底まで冷え切った状態から人の情けで温まって溶けて解放されるさまを聴いて滂沱の落涙を禁じえなかった。

パリよパリ管よありがとう!

2016年11月20日日曜日

ブラームスのクラリネット三重奏曲の公開講座を聴講する

本日はフェイスブックのお友達が奏者で出演するブラームスのクラリネット三重奏曲を用いた音楽講座を聴講しました。

〇新音楽講座 ブラームス・クラリネットトリオ
日時:11月20日(日)14:30~
場所:KMアートホール(幡ヶ谷)
演奏者:山中麻衣子(cl)・友正逹美 (vc)・田北裕子(pf)
講師:重松正大先生

ブラームスのクラリネット三重奏曲をピアノがご専門の先生が指導するレクチャーです。
なかなか目から鱗なことが多々・・・
小さな音を強く響かせる弾き方とか、ウナコルダの効果的な使用方法とか・・・

本日の講座で感じたことというのは、本日の指導とは直接関係しないかもしれないけれど、この三重奏曲は極めてパーソナルな作品で、ピアノはブラームス本人が弾くことが前提となっていたのではないかと思われたこと。
老いてから巡り合った素敵なクラリネット吹きさん(ミュールフェルトのことです)のために。
君の音色の甘いも辛いも私のピアノで素敵に引き立ててみせる。
重松正大先生はレクチャーの冒頭で老いるということは感性が鈍るのではなくてむしろ心の襞がより深くなることで、ブラームスは老いていくうちにその襞にいろいろ溜まってきて発火寸前になっていた時に若いクラリネット吹きさんに巡り合って一気に爆発した、と述べていました。
じゅ。が思うに老いても感性は発火寸前で衰えることはないが、孤独ではあると思います。
クララ・シューマンに片思いしていても孤独が癒されることはなかったが、ミュールフェルトには癒された。その音色で。感性で。
本日のレクチャーで先生がピアニストに語ったことは、クラリネットの音色をピアノが護るということ。。
その老いての心のありようの可否はともかく、ありえないような芸術作品がこの世に遺されたことをじゅ。は悔やむまい。。。
そういえば、今日午前中に練習したブラームスの交響曲第1番は、新響のチェリストで大河ドラマのテーマ音楽の作曲家でもある坂田晃一氏がプログラムで納得してないと述べていたようにクララ・シューマンへのラヴ・レターに添えた楽句(第4楽章のホルンの山の呼び声です)などクララへの愛がちりばめられていたにもかかわらずクララには不評で、考えてみれば交響曲とはそのようなパーソナルなものではなくパブリックなものであるべきというクララの信念があったのかもしれない。(第2番以降は曲調が穏やかになりますが曲調とは裏腹にパブリック性は増すと思う。)
そう思うと、ブラームスとは真にパーソナルな音楽の作り手に相応しい作曲家なのであって、その真髄はミュールフェルトを得た晩年の諸作品にこそ発揮されていると思われるのです。